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支倉常長メモリアルパーク

印刷用ページを表示する 掲載日:2015年12月11日更新

支倉常長像・支倉常長公の墓
 鬱蒼とした木々が立ち並ぶ道を進むと、急に整然とデザインされた美しい公園に出会うことができます。 
 小川が流れ、林立した人工的な柱の最頂部にはシンボリックに光の球が輝きを見せ、訪れた人々を心の安らぎへといざなうようです。 
 なにより、入口に立つ男の銅像が際立っている。この銅像の男こそが歴史上で希代の偉業を果たしながら、時代の流れによって闇に葬られてしまった「支倉常長」その人であり、この公園が支倉常長が永眠する墓へとアクセスする道を中心に公園整備された「支倉常長メモリアルパーク」です。

 支倉常長は慶長18年(1613年)伊達政宗の命をうけ、サン・ファン・ヴァウティスタ号という木造船にて、メキシコのアカプルコ経由でローマへと渡り、ローマ法皇に謁見した初めての日本人です。

 誰も成しえなかった太平洋・大西洋の二大洋を横断した男として、現代であれば希代のヒーローであろう支倉常長は、その過酷な7年の歳月を費やした旅から帰国した時、幕府の政策は鎖国そしてキリシタン禁教となっておりました。

 ましてや藩主伊達政宗の命は海外への軍事協力との説もあり、功臣ともいうべきこの支倉常長は事実上歴史から抹消されることになったのでした。

 現在、支倉常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所存在します。仙台市北山にある光明寺説。支倉常長の生まれ故郷とも言える川崎町支倉地区の円福寺説。そしてこの大郷町説の3つです。

 様々な憶測のもと、これらの歴史上の史実から大郷町の隠棲説が有力視されています。

 現在「梅安清公禅定門 支倉氏」こうかかれた墓標に、宮城県内はもとより全国から参拝者が訪れ、闇に葬られた歴史ロマンに夢を馳せておられるようです。

皆さんもぜひ一度支倉常長メモリアルパークへおいでください。
 

 


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