支倉常長の墓(支倉常長メモリアルパーク)
所在:大郷町東成田
町内東成田西光寺地区の山の中に、お墓があります。
「此の墓は、支倉六衛門様という人のお墓で、六衛門様は伊達政宗様のご命令でローマへ使いをして帰って来たが、ご城下にいると公方様(将軍様)から殺されるかも知れないので、政宗様のお指図によりこの在郷に隠れ人となって暮らした人である。」
支倉常長は、遣欧使節としてローマ法王に謁見後、元和6年(1620年)に帰国し、元和8年(1622年、元和7年(1621年)との説もあります)に亡くなったとされています。
しかし、常長が死亡したというのは、当時キリスト教の禁教令を布いていた幕府への見せかけの報告で、伊達政宗が、キリスト教の洗礼を受けていた常長を守るためのものだったという説があります。
政宗の配慮により常長は、本町東成田西光寺地区に隠れ住み、此の地で暮らし、承応3年(1654年)に84歳で亡くなったと伝えられています。
冒頭の口伝が伝わっている東成田西光寺地区では、正月に小豆粥を煮た赤味色の煮汁を、家の入り口や周囲にふりまき、悪疫や魔障が入らないよう、また五月節句に用いたヨモギを乾燥させ保存し、正月に家族の顔と胸に十字を書いて病に罹らぬまじないをするという、キリスト教の教義に基づくと思われる風習が残っています。
他にも政宗は、豊臣秀吉に仕えた武将 和久 宗是(わく そうぜ)を徳川幕府時代に町内川内、東成田地区に住まわせています。
徳川幕府全盛時に幕府の目を避け、豊臣秀吉恩顧の武将を住まわせるにも、東成田地区はうってつけだったのでしょうか。
数々の逸話を残した伊達政宗、帰国後死亡したとされながらも84歳まで生きたと伝えられる支倉常長。歴史のロマンを感じに大郷町を訪れてみませんか。
※和久 宗是
天文4年(1535年)生まれ。豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後、政宗に招かれ大郷町に居住。
大阪冬の陣が起こると政宗に暇 乞いをし、大阪に向かい豊臣方に加勢。大阪夏の陣で討死した。享年81歳
<支倉常長メモリアルパーク>
<支倉常長公のお墓>